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2008年02月14日

プロティノスという哲学者

こういう人でした。

プロティノス(Plotinos 205年? - 270年)は、新プラトン主義(ネオプラトニズム)の創始者といわれる哲学者である。

エジプト出身で、アレクサンドリアで学んだ後、ローマに移住。哲学の教師になる。主著に『エンネアデス』がある。ローマ皇帝ガリエヌスと交流があった。

プロティノスはプラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)より500年以上も後の生まれであり、当時は様々な神秘主義思想が唱えられていた時代である。ただしネオプラトニズムの創始者とはいっても、プロティノス自身には独自な説を唱えたという意識はなく、プラトンの正しい解釈と考えていた。

プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。 プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。 万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである(プロティノス自身は生涯に数回体験したという)。

神秘主義的な思想は、初期キリスト教のアウグスティヌスらにも影響を及ぼし、キリスト教神学に取り入れられたといわれる。プロティノスの著作自体は中世の西ヨーロッパには伝わっておらず、ルネサンス期の人文主義者・フィチーノがラテン語に翻訳したことで再発見された(1492年に刊行)。フィチーノを中心とするイタリア・ルネサンスの異教的な思想を育み、また後世の神秘思想にも影響を与えた。

また、プロティノスと同時代のグノーシス主義にも影響を及ぼしたが、プロティノス自身は「神が人間の方へ降りてくることはない」として(グノーシス主義を含む)キリスト教を批判していたという。
(以上、ウィキペディアより引用)

哲学ってなんかいいかげんでじゃないですか?

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2008年01月11日

豚肉

昔は豚をポークと言ってました。。

豚肉(ぶたにく)とは、豚の肉。ポーク(英語 pork )とも呼ばれる。食肉にされる。

日本では弥生時代の遺跡から出土した従来イノシシと思われた骨が豚の骨と判明した。古墳時代の遺跡からも豚の骨は出土している。『日本書紀』、『万葉集(萬葉集)』、『古事記』に猪飼、猪甘、猪養などという言葉があり(「猪」は中国ではブタのことを指す)、その当時は日本でも豚の飼育が行われていたことが伺える。

その後、天武天皇5年675年に最初の肉食禁止令がだされ、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・ニホンザル・ニワトリ・イヌ)の肉を食べてはいけないとされたがこれに豚はふくまれていなかった。戦国時代にキリスト教イエズス会の宣教師たちが、キリシタン大名たちを介して肉食の慣習を日本に持ち込んだため、一時的に豚肉が食べられるようになった。

やがて日本本土では豚肉を食べる習慣は廃れたが、南西諸島の琉球王国では中国と同様、日常的に養豚が為されていた。そして琉球人たちはハレの日には豚肉を食べていた。こういった当時からの本土との習慣の違いにより、沖縄県では豚肉料理が特に発達している。沖縄で飼育されている豚は、1385年に渡来したという琉球王国時代より続く血統の黒豚「アーグ」が有名。「アグー」または「シマウヮー(“島豚”の意)」とも。

また琉球だけでなく、薩摩地方でも豚は飼育され食用にされていた。1827年の佐藤信淵著『経済要録』には、薩摩藩の江戸邸では豚を飼育し、それによって取れた豚肉を町で売っていたという記録が為されている。また、江戸ではももんじ屋などで食べられた。1845年5月2日の書簡によれば、江戸幕府最後の征夷大将軍・徳川慶喜は、島津斉彬から父・徳川斉昭宛てに豚肉が送られていたという。そのせいか、彼は豚肉を好んで食べており、下々の者たちから「豚一様」と呼ばれていた。「豚一様」とは、「豚肉がお好きな一橋様」の略称である。

新選組も西本願寺駐屯時に、松本良順の勧めで神戸から子豚を持ち込んで養豚し、食べていた。豚の解体は木屋町の医者・南部精一の弟子に依頼していた。福沢諭吉著『西洋衣食住』には、緒方洪庵の適塾にて学ぶ塾生たちも豚を食べていたとの記録が為されている。

明治維新以後は日本全土で豚肉が一般に食べられるようになり、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にもそのことに関する記述が見られる。特に関東大震災後の関東地方ではにわかに養豚ブームが起き、豚肉の供給量が増え安価になったため、庶民たちにも比較的手の届くものとなった。関東を中心とする多くの地方で「肉」と言えば豚肉のことを指すようにもなった。なお、関西で「肉」と言えば牛肉のことを指し、豚肉は「豚」と呼ばれる事が多い。従って関西では、豚肉などを使った中華まんのことを「肉まん」とは呼ばず「豚まん」と呼ぶ。
(以上、ウィキペディアより引用)

豚はピグですね!

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2007年11月27日

戸塚ヨットスクールののなぞ

本当に悲しいですね。もう二度とこのようなことがない様にしてほしいですね。

戸塚ヨットスクールは1976年設立の当初、一般児童・青少年向けのヨットスクールとして発足したと、支援団体の戸塚校長プロフィールには紹介されている。全寮制で訓練生は同スクール宿舎に寝泊りすることを前提としている。

スパルタ式と呼ばれる独自の指導を行い、不登校や家庭内暴力などの数多くの少年少女達を矯正させたという触れ込みで話題となる。1970年代末?1980年代は校内暴力が社会問題として度々マスメディアに取り上げられるなどしており、問題行動を起こす青少年の矯正を行えるとした同スクールも注目された。 その一方で過度の体罰による怪我人が後を絶たず、脱走を企てた訓練生もおり、美浜町長が過度の体罰を自粛するよう異例の申し入れを行った経緯もある。

戸塚校長が提唱する、「脳幹論」に基づいた、体罰を含んだ訓練手法を用いている。戸塚校長は著書や講演会において「アトピーや喘息・登校拒否・癌なども、脳幹を鍛えることによって克服できる」と主張している。

ただ後述するように、訓練生への傷害致死事件を起こして校長以下関係者15名が逮捕され有罪となったこともあるため、同スクールの在り様に関しては議論の的ともなっている。


特色
戸塚ヨットスクールでは、事件として報じられる以前、校長である戸塚自ら考案したという「かざぐるま号」と呼ばれる一般向けの小型一人乗りヨットよりも安定度の低いヨットを用いて敢えて困難な状況を作ることで、心身を鍛えることができるとしていた。

戸塚校長の著書『私が直す!』でも「かざぐるまに乗っている子供を、あえて海に落とす」とし、この極限的状況の中で自分で対処する方法を考えさせるとしている。これはヨットマンとして実績のある同校長自らの経験に基づいている訓練方法で、名古屋大学工学部機械工学科を最終学歴とする戸塚校長の経験と独学的な理論に基づいている。

しかし現在、「かざぐるま号」は使われず、ウィンドサーフィンを中心に指導しているとされる。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)
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2007年11月05日

紅葉を見に行きたいです!!

東京はまだ見たいですが、寒い地域はそろそろ見れるようです。

紅葉した落ち葉の道
紅葉(こうよう、もみじ)は、秋に起こる落葉樹の葉の色が変わる現象。

なお、常緑樹も紅葉するものがあるが、緑の葉と一緒の時期であったり、時期がそろわなかったりするため、目立たない。ホルトノキは、常に少数の葉が赤く色づくのが見分けの目安になっている。また、秋になると草や低木の葉も紅葉し、それを「草紅葉」と総称していうことがある。

厳密には赤色に変わるのを「紅葉(こうよう)」、黄色に変わるのを「黄葉(おうよう)」、褐色に変わるのを「褐葉(かつよう)」と呼ぶが、時期が同じなためか、ともに「紅葉」として扱われる事が多い。しかし、同じ種類の木でも場所が違えば時期も違う。それは気温や湿度に関係する。複数の現象が同時に進む場合もある。葉がなんのために色づくのかについては、その理由は諸説あり、いまだ明らかになっていない。

紅葉は9月頃から北海道の大雪山を手始めに始まり、徐々に南下する。 紅葉の見頃の推移を桜前線と対比して「紅葉前線」と呼ぶ。 紅葉が始まってから完了するまでは約1ヶ月かかる。 見頃は開始後20?25日程度で、時期は北海道が10月、東北地方が11月、その他の地域は11?12月上旬頃。 山間部はこれよりやや早い。

紅葉や黄葉が進行する条件は、1日の最低気温が8度以下の日が続くと色づき始め、さらに5度以下になると一気に進むとされる。美しい紅葉の条件には「昼夜の気温の差が大きい」「夏が暑く日照時間が長い」「夏に充分な雨が降る」「湿気が少なく乾燥している」などの条件が必要。紅葉の名所にはこの条件をよく満たす山岳地帯が多い。


引用:『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年10月16日

島崎藤村は有名ですよね

島崎 藤村(しまざき とうそん、明治5年2月17日(1872年3月25日) - 昭和18年(1943年)8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名、春樹(はるき)。木曾の馬籠 [1] (現在の岐阜県中津川市)生れ。明治学院卒。

『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。ほかの作品に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親相姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説『夜明け前』など。

1872年(明治5年)2月17日(新暦3月25日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村 (現在の岐阜県中津川市)に生れた。父は正樹、母は縫。四男であった。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる地方名家で、祖は三浦半島の津久井の出。父の正樹は17代当主で国学者だった。

1878年(明治11年)、神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。1881年(明治14年)に上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父である武尾用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(現・錦城高校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院普通部本科(現・明治学院大学)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨と交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。明治学院大学第一期卒業生で、校歌も作詞している。この間1886年(明治19年)に父正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大であった。